「あの頃、君を追いかけた」言葉集

「答えが聞きたい?」

この作品で運命を変えたチアイーの言葉。原作ではコートンの「お前と結婚する」という言葉に対する返答。映画では「お前の心を捕まえる」という言葉に対する返答。高校卒業したばかりのカップルとしては無理ないが、結果的にコートンに「今は言うな」と言われて答えるチャンスを失った。まあ、ここでうまくいってつきあってから別れたら普通の話。この言葉がプラトニックな恋愛を凍結保存させたと言える。つまりこの作品を成立させた言葉。

この映画、プラトニックラブに徹底していて、デート中でもつつきあってばかりで手をつなぐシーンは一切ない。映画では別れたあと阿和にいきなり雑な手のつなぎ方をさせて対比を作っている(原作では阿和でなく廖英宏が付き合ったが手をつながず終わる)。最後の花婿へのキスシーンもプラトニックラブの徹底。チアイーとの情熱的なキスシーンなのにそれは妄想であって実際には花婿にしていて、花嫁のチアイーにキスはしないのだ。そうやってプラトニックラブを浮き立たせている。プラトニックに徹底しプラトニックならではの美しさを純粋抽出した作品。そしてそれを成立させた言葉。

「私が軽蔑するのは、自分は頑張らないで人の努力を馬鹿にする人」

「本気出さなくても平気な人はきらい」

 チアイーの言葉。うーん、耳が痛い。チアイーは恋の対象であるとともに人生の師匠だ。特に中高の成長期はそういう大人びた考え方だけであこがれの要素になる。だからチアイーはモテたんじゃないかな。それに加えて優等生でとびぬけて気品のある美少女。そんなチアイーに中高という多感な成長期に特別指導をしてもらえたんだから結果がどうあれコートンは幸せだ。

「あなたくらい好いてくれる人はもういないかも」

これは映画で地震のあとの電話でチアイーが言う言葉だが、実はちょっと変。原作を読むとコートンのチアイーの追いかけ方は異常とも言えるくらいすごいので、本当にその通りだと思えるのだが、映画ではコートンがいつチアイーを好きになりそれほど好いたのか、いつ追いかけたのか定かではない。

原作では中2でもう好きになっているが、映画では高校からだし、最初は特に好きでもないことになっている。教科書を貸した後積極的だったのはチアイーの方。好きでなきゃ、チアイーの言う通り勉強したり教室に居残りしたりしないとは思うが、好きだから勉強したという説明は映画の方ではみられない。どちらかというと賭けで負けたはずなのにポニーテールにしたチアイーをみて好きになったような雰囲気だ。

でもその後は盗難騒ぎ、そしてすぐ卒業式。つまりコートンが積極的にチアイーに恋し、追っかけるという場面は映画には無いようなのだ。だけど入試に失敗した夜に今好きというなというチアイーにもう知っているだろと答える。え、そうだったのと思う人がいるのでは?と思うくらい。

原作を読んだ後でオリジナルを見たので見てて違和感はなかったが、最初に日本版を見たときはだから話の展開が理解できなかったのかも。だからつまらなかったという側面もありそうだ。しかし日本版はリメイクなんだから直そうと思えば直せたはず。直そうともしなかった?

だからこの作品、原作を読んだ上でオリジナル映画を見るのが正解だ。そうするとコートンのチアイーを追っかける尋常でない努力を前提にできるし、原作でちょっと違和感を感じるようなこと(中3での李小華への恋とか別れた後すぐ別な子とつきあうとか)が映画にはなくてすっきりするし、この「あなたほど好いてくれる人はもういないかも」という言葉も納得でき重く伝わってくるだろう。

ところで今気づいたが、原作小説の邦訳出版は2018/8/10。日本版映画公開の2か月前。つまり原作小説を読んでから映画を見るという方法が可能になってから1年もたっていない。日本版映画の監督や出演者やスタッフも読まずに作ったかも知れない。もちろん出版されてなくても邦訳があって読んだりしたかもしれないが、普通は出版が決まってから翻訳するだろうから邦訳はなかったのではないか。なら、日本版映画が原作をまるっきり無視したとしてもやむを得ない。

オリジナルにこんな問題があることがわかっていれば日本版もここまで完コピすることもなかっただろう。男友達の紹介なんてやっている暇があったらかわりにコートンのチアイーの追いかけシーンをたっぷり増量したことだろう。そうすればオリジナルにない価値が生まれたはず。絶好のリメイクのチャンスを逃してしまった。残念。

 「無駄な努力も人生のうち」

チアイーの言葉だが、コートンのチアイーを追っかける努力は成就しなかったという意味では無駄な努力だったが、それが素晴らしい人生をもたらした。チアイーは正しい。

「これからも幼稚だ」

最後のコートンの言葉。チアイーから幼稚だと言われ続け、それが受け入れられなくて別れることになってしまったコートンのチアイーからの独立宣言とも言えるかも。自らのアイデンティティを確立し大人になったコートンはチアイーを卒業したのだ。