不安・不信・危険

原発は推進派と反対派という切り口で語られることが多い。しかし一言で反対派といってもその理由が不安だからという人もいるだろうし、電力会社や政府を信頼できないという人もいるだろうし、原発は危険だから反対という人もいるだろう。それぞれ切り分けて考える必要がある。昔の反原発運動はおそらく核爆発を連想し不安だからといった理由が多かったのではないか。また、反核運動と結びついたイデオロギー的なものもあっただろう。そういった中で原発を作る人は絶対安全といってまわるという説得の仕方を試みたのだろう。しかし反原発運動はあるときを境に質が変わった。それは高木仁三郎原子力情報資料室である。それからの反原発運動はスリーマイルやチェルノブイリの事故を学ぶことにより原発の危険性を理解し、それを理由に反対することになった。危険性を理解する人にとって推進派の絶対安全という説得は意味をなさない。推進派はごまかしていると思われ不信をまねく。このとき推進派は敵を見誤ったのだ。本来は原発の危険は推進派、反対派にとって共通の敵だ。原発の危険に対しては双方議論して明らかな危険があればそれを取り除いていく必要があった。その意味で危険を理解する反対派は危険回避のアドバイザーでもあったはずなのだ。しかし推進派はそういう認識はせず、自ら作り出した安全神話を厚塗りすることに熱意を注いだ。その結果たいした意味も無い検査項目ばかり増やし、メーカーの疲弊や稼働率の低下につながった。危険こそ本当の敵であると認識できればその対処により信頼を勝ち得たかも知れないのに方向性を間違ったために安全神話を揺るがす危険回避の議論を避けることになり今回の事態につながった。推進派に求められるのは危険こそ敵と認識し、できることは何でもやるという真摯な姿勢なのだ。