足利事件


その昔足利で女の子が殺された事件の犯人とされた人が最新のDNA鑑定で犯人とは別人とされたというニュースがあった。初めてDNA鑑定が決め手となって刑が確定した人であるはずなのにそこが間違えば全部ひっくり返ることになる。当時のDNA鑑定は精度が悪かったと今頃言われても困る。これまでも再審無罪というのはときどきあったがそれにしても灰色な感じは残っていた。DNAが明らかに違うことになれば無罪だったことがはっきりするわけだ。それにしても控訴審ですでにDNA鑑定に疑義があることが指摘されていたのに再鑑定を行わず、今回の再審でも一審では行われなかったのはなぜなのだろうか。やればはっきりすることではないのか。ちょっと前に痴漢裁判でも最高裁で無罪が出ていたが、それまで200回近い痴漢裁判で無罪が出たのはないらしい。しかしふつうに考えて、裁判にしないで罪を認めれば略式で数十万払って終わりなところをわざわざ裁判にしている人たちがすべて有罪とはとても思えない。起訴事実を争う人はおそらくほとんど無罪だろう。これほど司法と一般の感覚の差は大きいのである。日本の司法に携わる人々は国の中でも最高に頭のいい人たちのはずだが無実の人を罪に陥れるという犯罪を組織的にやっていることになる。組織的だから罪の意識がない。組織的だから個人で対応する裁判官や弁護士が無力なのである。裁判官や弁護士は相手をよく知っているから対抗できない。裁判員の「無知」こそが検察組織と対抗する武器になるのである。この武器により疑わしきは罰せずという言葉が実際に行われるようになるといいのだが、どうだろうか。