「政治家の殺し方」

横浜市長中田宏の著書。この本は重大な欠陥がある。肝心な題名の政治家の殺し方が書かれていないのだ。市長時代にスキャンダルを書き立てられたことが書いてある。しかしそのスキャンダルでは市長中田宏は死んでいない。私は彼がいつどのように市長をやめたのか知らなかったし、そのスキャンダルのことも知らなかったのでこの本の題名および最初の1ページを読んだ段階でてっきりこの人はスキャンダルを書き立てられ、そしてそれを理由にやめざるを得なくなりその顛末を本にしたのかと思った。しかし読んでみるとそうではなく、スキャンダルはあったが訴訟に打って出て勝訴しているし、やめた理由はスキャンダルとは関係なく、現在でも政治家生命が絶たれているわけでもない。そういえば橋下大阪市にもなんかの役をもったような報道があったはずだ。つまりスキャンダルで政治家は殺されないということだ。ただし中にはスキャンダルで殺される政治家もいるかも知れない。そのスキャンダルの騒ぎ立て方は一応書いてあるが、だれでも可能なわけではない。だから題名の政治家の殺し方は結局わからない。まあ、それはそれとして、前に読んだ橋下大阪市長の本よりはかなり読みやすい。橋下市長の本には似たようなことを何度も強調しているようなところが多いが、この本にはそれがなく、非常にすっきりしている。現役と退役後の違いもあるかも知れない。本人のいうことだからわからないが、この人は横浜市の収支を黒字にし、赤字が問題になった横浜開港150年イベントの赤字もまったく問題ないくらい黒字がたまっていたらしい。そりゃすごいことだ。そんなすごいことはしかしマスコミには報道されない。マスコミは悪いことを悪いという能力はあるがいい結果を評価する能力はないのだ。評価軸を作る能力のある人はいない。それは池上彰の番組をみてよく思うことなのだ。池上彰のような評価軸をもっている人がテレビの中ではほかに見当たらない。どうもだれも代わりができないようなのだ。一方スキャンダルのようなことはたいして確認もせず大々的に報道する。もし間違いがあっても謝罪などしないし訂正をのせても数行だ。日本のマスコミなんてそんなものなのだ。やめた理由が書いてあるが、見事というほかはない。確かにやめたときにその理由は言えないし、言わないのだから理解はされなかっただろう。しかし理由がわかればまさにそうすべきことであり、それを実行したのはさすがと言える。これを読んで思ったのはやはりなるべく一次情報に接するべきだということだ。週刊誌の記事を無条件で信じるなんてことはもはやだれもやらないとは思うが、新聞やテレビの情報についても興味を持ったものは本人の情報や直接のデータに接するように努力すべきだろう。また、仕事についての評価、特によくやっている場合の評価は新聞もテレビもやってくれてないが、それをやるには一次情報に接して自分で判断するのが最良なのだがそこまでやる時間も能力もないから、評価軸を持つジャーナリストやブロガーなどを見つけて教えてもらうように努力するしかないだろう。いいことをしてもそれをまわりが評価できなければだれもいいことをしようとは思わないだろう。天才と評価されている人はそれを天才と評価できる人とセットなのだ。評価できる人がいなければどんな天才も埋もれてしまう。国民がいい政治家をほしいと思えば国民は政治家を評価する能力を身につけなければならない。いい公務員がほしければいい公務員を評価する能力を身につけなければならない。この国民にしてこの政治家ありというのは真実なのだ。

政治家の殺し方

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