菅総理の評価

 震災後、菅総理は官邸地下1階の危機管理センターを使わず、5階の執務室で意思決定をした。それがいろいろな施策の停滞につながったと批判されている。独立検証委員会の報告書では菅総理が5階に上がっていた理由は「携帯電話がつながらなかったから」ということである。なるほど地下1階では携帯はつながらず、保安院やでたらめ委員長がまったく頼りにならないなかでセカンドオピニオンを求めるには携帯が必要だったのだ。ただでさえ連絡手段が限られる非常時にわざわざ地下にもぐるしかないという設計はどうなのか。菅総理を5階に追いやったのは非常時に地下1階にもぐるというその設計だった。それは自民党が責めを負うべきものだ。
 菅総理の批判は実は菅総理の批判ではないものばかりである。注水ストップ問題も菅総理の指示でなく、まだ総理の許可をもらってないから止めろという東電側の指示だった。福島第一に飛んだことも批判されているが、保安院があまりに無能だったために本当に信頼できる情報を求めたものだ。責めを負うべきはこれほどにも無能な役所を作った自民党だ。
 菅総理は福島に飛び、吉田所長と会って、彼なら頼りになるという基本的な信頼を持てた。つまり頼りにならないのは保安院と東電本店であることを確認したのだ。その結果が東電に乗り込んで作った統合本部であり、そのことを批判する報告書は無い。つまり菅総理が行った批判を受けた行動はそれなりに意味があったものばかりだ。
 どの報告書を見ても菅総理が自己の利益を優先した形跡はない。動機に不純な点はないのだ。福島に飛ぶに当たって後日政治的に責められると回りは反対したそうだがそれとこれとどっちが重要なんだと言って飛んだのだ。自らの政治生命すら守らずに事故収束を優先した行動だったのである。
もちろん結果としてその行動がなんら事態を改善しなかったということはある。何を評価するかは哲学の問題かも知れない。「成功」に価値を置くか「立志」に価値を置くかということだ。私はやはり「立志」に価値を置く。その意味で菅総理に批判される点はないと思える。
 威圧的な態度を問題にする向きもあるようだが、非常事態なのだ。子供をあやしているのではない。そんなことを理由に人を批判するのは子供のいいわけに過ぎない。あのおとなしそうな細野大臣でも菅総理に大声でどなられたら倍の大声でどなりかえすといっている。
一方、保安院東京電力、そして保安院などより菅総理を批判している自民党やマスコミはどうなのか。自己の利益を優先しない行動があったのか?ほとんどが自己の利益を優先する行動だったのではないか。理念というものは死語なのか。唯一菅総理とまわりのわずかなスタッフだけがまともだったのではないか。
 こう考えると菅総理ら以外の普通の日本の支配層の精神というか哲学というかがあまりにもお粗末で情けないことがわかってしまう。しかし今回独立検証委員会はこういう状況を第三者的立場から批判した。レベルの高い脱原発活動家も大勢いる。そういった人たちを評価する橋下大阪維新も勢力を伸ばしている。希望はある。期待の星を具体的に応援することを考えよう。