原発の受容に何が必要か

 福島原発事故を受けて人々は原発の存在を受容できず、再稼動反対へとつながっている。それに対し、原発推進派は地震津波が起こっても福島のようにならないことを確認したし、電力不足や代替燃料費の問題もあるから再稼動したいといっている。
 しかし原発が社会に受容されないのは原発が危険だからではない。原発事故では直接の死者はないし、放射能で障害がおきたという話も聞かない。一方自動車事故では減ったとはいえ、年間5000人もの死者がでており、怪我をする人は100万人にもおよぶ。その自動車を人々は受け入れている。つまり実際には原発より明らかに危険なものをわれわれは受容しているのだ。バス事故があっても格安バスは今でも走っている。もちろん反対の声はあるが、高速バスが社会に受容されているのは明らかだ。
 なぜ明らかに危険な自動車が社会的に受容され、実被害はそうでもない原発が社会的に受容されないのだろうか。今回の震災も震災による直接の被害のほうがはるかに大きいにもかかわらず、震災による被害は社会的には受容されている。しかし原発被害は受容されていない。
 受容されるかどうかは被害の大きさでは決まらない。震災や津波の被害はどんなに大きくても受け入れるしかないし、自動車の危険性はわかっているが人々は自動車による利便性を選んでいる。しかし原発の危険性は長い間安全神話に隠され、つい最近現実になって学んだばかりだ。発電には別な方法もある。人々は新たにわかった原発の危険性を測りかね、受け入れられず、他の発電方法を選択したいと願っている。つまり原発が受容されない理由はその危険性についてのイメージが形成されていない、言い換えれば無限に危険性が広がるようなイメージをもたれているからだ。
 原発の議論において、危険性を強調する勢力と安全性を強調する勢力に別れて互いに競い合う結果、危険イメージは妄想的に広がっている。なぜこういうことになるか。危険性とはマイナスポイントである。危険性を強調するということはマイナスポイントを大きく見せるということだ。安全性とはプラスポイントではない。マイナスが0だということでしかない。安全性を強調しても0がいかにもゼロであるということだけであり、マイナスポイントの増大に対抗できないのだ。危険性を強調する勢力と戦うには具体的に危険を除去する対策を訴えていく、つまりマイナスポイントを具体的に減らしていくしかない。それを行わずにいくら安全を強調しても残念ながら副作用として対立勢力により危険性が強調され妄想が広がっていくだけなのだ。
 原発の危険性を受け入れてもらうには原発の危険性について説明しなければならない。今までのように危険性を隠す方向ではもはや人々に原発が受け入れられることはない。人々は原発の危険性を知ってしまった。いくら安全を強調したところで危険性についての妄想が広がっていくことは防止できない。原発推進のためには原発の危険性について正面から取り組む姿勢が必要である。原発の危険を具体化し、その被害や危険度について定量化し、その対策についてコンセンサスを得ていくことである。危険妄想が無限に広がるのを防ぎ、原発の危険について有限で定量的なイメージを人々が作れるようにしていくのだ。原発の危険の限界がわかり、その対策方法等もわかっていけば人々は原発を受け入れられるようになる。いったん受け入れられれば寿命60年運転も新設も可能になる。ほんとうに原発を推進しようと考えるならそういう方向に歩みだすはずだ。
 実は原発の危険性を受け入れられないのは一般の人々でなく原発推進派自身ではないのか。それができないから人々に危険性を説明することもできない。安全神話にすがって生きてきた推進派は自ら原発の危険性に言及することは内部的事情として許されないのだ。そういう体質になってしまっている。人々の危険妄想は実は原発推進派の無意識の投影なのだ。