原発について

原発稼働差し止めを命じた判決がでたが、それを聞いて考えたこと。(判決中身とは関係ない)
原発は事故がおきる可能性があり、それは確率的なリスクである。推進派はその確率は十分低いのだから動かした方が得だという。ふつうこういう確率的なリスクに人はどう対処しているか。株取引でも自動車や飛行機に乗るときも確率的なリスクはある。それはわかっているが、それを了解の上で配当や利便性を重視して人はそれを行う。あるいは行わない。事故のリスクを恐れ自動車を使わないという人は少ないだろうが、飛行機を使わない人はもう少し多いだろうし、株価下落を恐れて株取引をしない人は多数派かもしれない。これはリスクの大小とは関係ない。明らかに自動車より飛行機の方がリスクは少ない。代替手段があるかないかも重要だ。飛行機のリスクを恐れて鉄道やバスや船を選択する人はいるかもしれない。このように確率的リスクについてはそのリスクを引き受ける決断は普通個人に任される。リスクが顕在化した場合の被害もその決断をした個人に起こり、他の判断をした人には起きない。原発はそうではない。原発を動かしたときの配当は電気料金の形で多くの人に振り分けられるが、リスクが顕在化した場合の被害も多くの人に襲いかかる。個人的な選択ができないわけだ。逆に言えばリスクを引き受けようとする人がリスクを引き受けきれない、その判断をしなかった他人にもリスクが及ぶというわけだ。事故確率の大小ではなく、そのリスクを皆が引き受けられるのかが問題ということである。全員がリスク引き受けに同意すれば問題ないが、リスク引き受けを拒否する人がいた場合にどうなるか。そしてそれは憲法の人格権とどうかかわるのか。原発問題とはそういう問題なのだ。それから国富について。原発を止めると燃料輸入量が増え、赤字になって国富が流出するというが、それはフローの話だ。原発が事故ったときに失われる地域社会はストックである。フローの改善とストックの破壊を天秤にかけることはできるのか。フローが改善した分が破壊されるストックを上回るならフローの改善を選択する理由にはなるが、どうやって測るのか。その比較方法、評価方法について合意が得られなければどちらが得かも結局のところ不明だ。やはり原発推進派はいろいろなところをすっ飛ばして自分たちに都合のいい論理を展開しているように思える。