佐村河内守事件はばれるのが早すぎた

伊藤乾という人が「偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ」という文章を書いていて、それによると専門家から見れば今回の交響曲みたいな曲は「手垢だけでこねたような、音楽としては一切新味のないもの」であり、そんなものに自分の名前は付けたくないらしい。であれば、そういう一流の作曲家に普通の人が楽しめるようなレベルの交響曲を作ってもらうには佐村河内のような泥をかぶる人間が必要だったのだ。佐村河内の作戦が最高にうまくいって、交響曲10番ぐらいまでいって小作品も含め数百曲作られた段階でばれていれば、そのレベルの音楽資産が蓄積され、この手法はそういう商用クラシックの生産手法として認知され、確立されたかもしれない。今の段階でばれればこの手法は否定され、似たような手法をとることを考えていた人もあきらめるだろう。こうして「手垢だけでこねたような、音楽としては一切新味のない」クラシックの新曲が一流の作曲家によって作られる可能性は閉ざされた。しかしクラシックが好きな人はたぶんそういう曲を期待しているのではないだろうか。佐村河内はまさにそのニーズをうまくつかまえていたのかも知れないのだ。たいへんに残念である。
それにしてもあのA4の交響曲設計図はおもしろい。あれをまともな音楽プロデューサーが作ってまともな作曲家に依頼し、ペンネームで発表してもらえば問題ない。この事件のあとで売れるかどうかが問題だが。