「あの頃、君を追いかけた」映画と原作の比較表

「あの頃、君を追いかけた」の映画と原作の比較表を作ってみた。

項目 映画 原作
前に座る経緯

授業中の抜き競争後(高校)

騒ぐので壁に向かわせたが、壁としゃべってうるさいから(中2)
親友 弯弯。本人役だが非実在人物。彼女はイラストレーターで監督の小説の挿絵をしていたお仲間。 無し。代わりに別の女子とチアイーの姉にスパイを頼みチアイーの気持ちを聞き出す。
チアイーが勉強を教える経緯 教科書を貸してもらって罰を逃れたお礼 クラスが30人に減らされるときのチアイーのお節介
コートンが高校で理系になった経緯   中3のときに恋した李小華が理系に強いと評価していたから
高校のクラス 同じクラス コートンは理系、チアイーは文系
夜教室で勉強する経緯 キョンシーの話をしたあとチアイーが一人で勉強するのが怖かったのでコートンを居残りさせた キョンシーの話をしたのは中2。
高校ではクラスが違ったが、チアイーが夜、教室に残って勉強をしていることを知り声をかけ、数学等を教えあう。その後コートンも夜教室で勉強することにした。原則別の教室で勉強することにし、時々ビスケットを食べながらおしゃべりした。
賭けの対象と動機 髪型。自分よりバカは嫌いといわれて反発して。チアイーは賭けに勝ったのにポニーテールにし、その後大学にいくまではずっとポニーテール 最初は牛乳。2番目が髪型。その後は牛乳。賭けを成立させるとチアイーに夜だけでなく毎朝会いに行く理由ができ一緒に朝食を食べることができる。
なし 彼女のための歌を作曲し皆に歌わせる。
電話 夜の電話シーンなし いつも彼女との話題を考えメモを作りそれを見て毎晩電話
週末 なし 文化センターでチアイーとお勉強
盗難騒ぎ 有。たぶん海への導入 なし
将来の夢を語るシーン 夏休みの仏教キャンプ。学校のある先生のボランティアの依頼にこたえた。チアイーが引き受けみんなチアイーが好きなので参加。その夜に語り合った。
コートンの大学入試 通常入試で成功 推薦で新竹の交通大学経営科学部に文系で合格。チアイーと同じクラスになるつもりで文系にしたが、チアイーは他の人に推薦枠を譲ってしまった。
チアイーの大学入試 通常入試で失敗 通常入試で失敗、台北師範学院へ。
コートンがチアイーを好きと言ったのは? チアイーが入試で失敗した夜、会いに行くがチアイーに今好きだとか言わないでと言われる。知ってるだろと答える。 チアイーが入試で失敗した夜の7時間もの電話。会いに行ってはいない。
アップルTシャツ 別な大学に行ってしまうときに渡し、喧嘩大会に着てきた。 卒業式で渡し、入試で着てきた。
答えを聞きたい?の会話 デートシーンでスカイランタンを上げるとき

チアイーが入試で失敗した夜の7時間もの電話。

デートの経緯 クリスマス スパイによる学園祭ツアー企画
デート場所 新北、平渓線、平渓駅付近、 嘉義農業専科学校の学園祭と阿里山の日の出
家ではだらしないよの会話 デートシーン 学園祭
喧嘩大会に彼女は アップルTシャツできて喧嘩 来ない。事後報告の電話で喧嘩
喧嘩大会後 2年間音信不通 しばらくして(数日後?)二人とも彼女・彼氏を作る。連絡は取りあっている。
花婿とのキス 有。かつ重要な回想シーン。 無し。ここで映画のラストシーンを思いつく。

 

映画と原作の一番の大きな違いは高校時代クラスが同じか違うかといういことだろう。違うクラスのチアイーとの交流を築くためコートンはそれは涙ぐましい努力をしている。盗難シーンはなぜあるのかよくわからない。海に一緒にいく理由づくりか?原作にあるピースをうまーく組み合わせて映画用のストーリーをうまく組み上げている。

面白いのは原作の最後に映画のラストシーンを思いついたと書いてあることだ。それは原作には無いが映画にはある花婿とのキスシーンだろう。映画はそのときの回想シーンが本当に感動的・効果的。あれがなければ普通の映画。だから小説を書き上げあのシーンをおもいついたとき映画化は決定したのだ。しかしスタッフは集まらず有名俳優や女優も起用できずスポンサーに逃げられ映画化は苦労するが、そのため時間が得られ納得のいく出来に仕上がった。そして大成功。

原作を見るとびっくりするのは、コートンのように女の子と仲良くできるというのは自分のようなその他大勢からみるとまさに理想的なのに、それでもなかなか女の子と手をつなげないとか、答えがノーに違いないなどと思ってしまってうまくいかないことだ。それじゃあ、自分のように電話もかけられないようじゃまったく無理。

とは言え、自分にも高校1年のときには瞬間的にチャンスがあった。席の近くの男女6人で交換日記を回したことだ。女の子3人は文化祭のミスコンにもエントリーした美少女。こんな幸せなことはなかったが、すぐ書くことがなくなってしまい、いつか回らなくなった。このときに一緒に勉強なんて発展していたらこの小説のようになれたかも。

また、やはり高1の頃、ある女の子とやたらと話が合っておしゃべりしたことがあった。あまりにも話が合っているのをみてクラスメートが教室に二人だけにするといういたずらをした。それ以降、なんか意識しちゃって話せなくなってしまった。高校の時にはいくらでも話せたのにデートとなると話せなくなったコートンみたいだ。

どちらもせいぜい1か月程度のことと思うが、自分もコートンみたいに女の子に対する努力を惜しまなければチャンスを生かしてコートンみたいな理想的な高校時代が送れたかも。浮いた話が全然ない自分にまでこんな些細なことを思い出させるこの映画はいいね。こんな感じで映画をみたあと学生時代にかかわりのあった人と連絡をとったりした人がいっぱいいたそうだ。

それにしてもこの表を作るため映画を見返しているが、やっぱりチアイー役はいいね。目の動き、表情がすばらしい。同じ笑顔でも毎回違う。何を考えてのその笑顔なのかを想像してしまう。99%は言い過ぎとは思うが90%はミシェル・チェンの魅力だね。当時無名の27歳の女優によく決めたものだ。でもそれだけのキャリアと技が必要な役だ。日本版を見てちょっとでも不満を感じた人は絶対オリジナルを見るべきだ。

映画『あの頃、君を追いかけた』公式サイト

あと面白いのは親友役の弯弯。イラストレーターで活躍していて監督の小説のイラストもやるお仲間のようで出ることになったようだ。映画の中で本人の活躍シーンを紹介したりするから監督の同級生?と誤解されたようだ。本人役で出演しているが原作にはいない架空の人物。しかし、チアイーの気持ちを語らせる重要な役どころ。

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「あの頃、君を追いかけた」その他いろいろ


映画『あの頃、君を追いかけた』予告編

ヒロイン、チアイーを演じたミシェル・チェンは公開当時28歳、撮影時は27歳くらいだろう。高校生を演じる年齢ではないが、最後の結婚式のシーンにちょうどいい年齢。もちろん映画ではそんなことを微塵も感じさせない。自分はポニーテールにそれほど興味は無いが、ネットの感想を見てもチアイーがポニーテールにするシーンは多くの男子の心をつかみ、ミシェル・チェンは大ブレークし「初恋の女神」と呼ばれるようになったらしい。その女神が2016年に中国の俳優とおめでた婚をして女神信者がショックを受けているというネット記事がいっぱいある。一般的評価は別にしてもヒロインはほんとにかわいい。美人顔ではなく、どこにでもいそうな感じなのに笑顔とかちょっと不安げな顔などにぐっとくる。言葉のわからないyoutube版を見ても面白いと思ったのはミシェルがかわいかったから。この映画の魅力の99%はミシェル・チェンと言っているひともいるが、自分も賛同するかな。年齢的にも女子高生役はこの作品が最後だろう。その意味でもこの作品はお宝。

主人公、コートンを演じたクー・チェンドンは公開当時20歳。撮影時は19歳くらいだろう。この映画にちょうどいい年齢。ヒロインを演じたミシェルチェンとは8歳も年下だ。しかしこの映画は女子が先に大人になり、男子はなかなか大人にならないという映画だから、見た目しっかりしている女子役とちょっと危なそうな男子役にはこれがちょうどいい配役だ。妙に自信家なところもなんだかいじけているところもよく似合っている。女子から見ると「かわいい」男子であるようだ。ギデンズ・コー監督は先にミシェル・チェンを決めて男子役候補二人のうちから好きになるならどっち?と聞いてミシェルチェンに選ばせたそうだ。リアルチアイーもコートン役は正解と評価していたらしい。

そう、この作品の面白いところはリアルチアイーが存在しているところだ。映画の主人公のコートンは監督の本名、チアイーもそのころ監督が追っかけていた人の本名(映画では漢字は替えたようだが読みは同じらしい)。のだめカンタービレののだめもモデルになったリアルのだめこと「野田恵」さんがいるらしいが、作品ののだめはリアルなのだめを表現したものではない。しかし、この作品においてチアイーはリアルチアイーを表現したものだ。それが作品のチアイーの存在感を増す。リアルチアイーは台湾で学校の先生をしているらしい。ネットではリアルチアイーらしい写真も出回っている。気品があってお堅い感じ。

監督はミシェルチェンにはほとんど演技指導を行わず、逆にチアイーだったらどう思うかを考えて演技してくれと頼んだそうだ。監督は自分がどう考えていたかはわかるが本当のチアイーが当時何を考えていたかはいまだにわからない。だから想像するしかないが、想像するならその役をやっている女優に想像してもらった方がよりリアルになると思ったのだろう。だからあのチアイーはミシェルの作品でもあるのだ。そして大成功。

監督本人はチアイーの結婚から12年後の2017年に12歳年下のキャスターの女性と結婚したようだ。

日本の映画の配役は主人公役の山田裕貴が27歳、ヒロイン齋藤飛鳥が19歳。台湾とは年齢的に完全逆パターン。それで女子が先に大人になるというのは無理。もちろん演技がうまければそうとは限らないけど現役の乃木坂の子に演技を期待するのも無理。明らかに配役が間違っている。そのくせ、映画はリメイクというよりはコピー。カット割りも構図もそうだし、日本では見たことない名前を刺しゅうした制服とか、日本ではありえない卒業時の海遊びとか、まだつきあってもいないカップルにはありえない台湾でのデートまでオリジナルと同じで言葉と出演者だけ違うと言う作りなのに配役を誤ったら失敗は明らか。おまけにオリジナルにはあるパロディは無し。いいところなし。本当に残念な映画。小説は読んだのだろうか。小説と映画でこんなに違うのに映画をこれだけ完コピする必要もないと思うのだが。それがリスク回避になると思ったのだろうか。なんだか怖くて新しいものを産み出せない今の日本を象徴しているようだ。

 

 


映画『あの頃、君を追いかけた』本予告

 


『あの頃、君を追いかけた』“ハッピーエンドの行方バージョン”予告編

 


山田裕貴、齋藤飛鳥 【あの頃、君を追いかけた】 2018 映画予告編


山田裕貴×齋藤飛鳥『あの頃、君を追いかけた』特報映像

「あの頃、君を追いかけた」(台湾映画・字幕付き)

あの頃、君を追いかけた[DVD]

台湾映画の字幕付きを見たくて近くの蔦屋に行ったが無かった。amazonプライムでも無い。NETFLIXで台湾映画の字幕付きを配信していることを発見。30日間無料お試しができるので、普段映画をみることなんかほとんどないからこの映画だけ見れればいいので無料お試しだけで十分なので申し込んで見てみた。

原作を読んでから映画をも一回見てみたら、原作にないエピソードばっかりでびっくり。映画で印象的なシーンはほとんど原作にはないと言ってもいいくらい。DVDのカバー写真の海のシーンも原作には無い。映画は短い時間で物語を作りやすいようなシーンを映画のために作ったのだろう。その分映画はいろいろあって非常に面白いものになっている。原作は現実的でそんなに純愛でも無いが、映画は彼の方は少なくとも純愛。彼女の方もたぶん現実よりも彼のことが好きであったように描かれている。だから映画を見るとどうしてくっつかないのか、非常にもどかしく、そのもどかしさがまたいい。そしてあのときもう少し大人であったなら、というパラレルワールドが具体的。後悔というテーマが浮き立っている。

小説はもっと現実的。別れたあとに彼はさっさと別の彼女を作っちゃってるし、なのに連絡は頻繁にとりあっていて映画のように2年も音信不通ということも無い。彼女も映画に描かれているほど彼を好きなわけではなかっただろう(これはあくまで推測。実際はどうかわからない)。映画でもでてくるが、彼女は彼と付き合っている状態のことを「うらやましい」と表現している。妬ましいではないし後悔のニュアンスも感じられない。彼でなくていいからそういう状態がほしいという表現だ。

彼が彼女に求めるものはなんだったのだろうか。相思相愛か、結婚か、相互理解か、肉体か。結婚や肉体であればあのとき答えを求めていれば得られたかも知れない。しかし、後で彼が最大の評価を与えるものに対し彼女がゼロ評価で別れることになるわけだから二人には重大な価値観の相違がある。例え結婚してもうまくいかないか、非常に我慢を強いられるものになる可能性は高い。結婚していればたぶん今のような進路選択は不可能で成功はしなかっただろう。だから自分と彼女との明らかな価値観の相違が確認された段階で過去にとらわれずに新しい選択をするのは妥当な判断だ。普通の人は過去の努力を無にしないために彼女の言うことを聞くだろう。後悔のもとになったとしてもあっさり決断してしまうところが彼らしい。じゃあ、いったい彼は彼女をなぜ追いかけたのか。やっぱり「好き」だったからかな。現実の選択には理屈がついても「好き」という感情に理屈はない。

終わりよければすべてよし、だ。とにかく映画は小説とはまた違って、もちろん意味のわからないyoutube版とも違ってすごく面白かった。原作者である監督はこの映画が初映画らしいが、ほんとにすばらしい。若いのにすごい才能なのでは?日本のつまんない映画はこの映画を忠実にまねすることで日本に紹介したかったのだろう。うまくいってはいないが、この作品への敬意は感じられる。この映画をメジャーな形で日本に紹介するだけでも価値はある。

ところで、日本版にはもちろんなく、youtube版にも無いシーンがいっぱいあった。男子が自慰をしたり飯島愛のAVを見たりという下ネタのシーンだ。そういう下ネタで笑いをとりに行くシーンがいっぱい。純愛ものとしてうまくいっているが一方でそんな下ネタコメディでもある。下ネタを並べる一方で彼女に対して手をつなぐシーンすらない。だけど彼女とたわむれるシーンは本当に楽しそう。現実の男子もそうだったりする。そういういろんな側面が違和感なく混然として映画を構成しているところもおもしろい。

「あの頃、君を追いかけた」(小説)

あの頃、君を追いかけた (講談社文庫)

小説読了。毒を食らわば皿まで。

 

これはまつたく理想的な青春だ。誰もがあこがれる美少女の同級生に勉強を教えてもらえて、そう言う不純な動機により猛勉強して成績はトップクラスとなり、途中別の子と仲良くなったりもしながらもその子と一緒に勉強する状況が中学から高校卒業まで続く。ただし、男は彼女が好きだが彼女は男を好きな素振りは見せない。卒業後、男は彼女を好きなことをはっきりと伝えるが返事は拒み、彼女は彼をどう思っているかを伝えることはないまま。その後彼は自分が頑張った喧嘩大会を彼女に幼稚と酷評されたことに腹を立てて彼女を振ってしまう。

 

あんなにお互いに好きでしあわせな時間をあんなに長く過ごしてきた二人はどうしてくっつけなかったのだろう。あまりにも理想的な高校時代とその後のギャップが激しく、他人事ながら消化できない。男は彼女のためとは言え基本自分がやりたいようにやっているし、自由奔放ということでまだかたをつけられそうだが、彼女はちょっとかわいそう。彼があんなに彼女が好きということがわかっていたのについに彼女は彼が好きとは伝える機会を失ったまま振られてしまった。それが悪いと言えばそうかも知れないが、彼が結婚したいとまで明確に言っていてそれまで8年もそんな感じで一緒にいたのに突然振られるのは理解できなかっただろう。とは言え、その状況を覆す行動力も彼女はもたなかった。これだけ理想的な関係を築いていても青春は気まぐれと言う他無い。

じゃあくっついていたらうまくいっていただろうか。学校が終わっても教室で一緒に夜おそくまで勉強し、帰ってからも電話で何時間も話し、朝も電話で起こされるような濃密な関係を続けてきた二人なのに、卒業後のデートシーンではなぜかまったくぎこちない。共通目的を持った同士としてはこの上なくうまくいっても、共通目的が無いとうまくいかなかったりする。

彼が彼女のことをオバサンと表現することが何度かあるが、彼女の彼を見る目線はどっちかというと母親目線保護者目線であり、逆に言えば彼が少しバカでちょうどいい。一緒に勉強する状況だとその状況が続くからちょうど良かったのだが、彼が絶対の自信を持つ分野に対し母親目線で文句をいうと彼は親離れしてしまった。彼女は彼が戻って来ることを期待したが、一度親離れした子は(子ではないが彼とも言えない)戻っては来なかった。

彼は彼で本当に好きなのは彼女ではなく「彼女を追いかけること」だったのかもしれない。彼女は彼女でもともと彼が好きなのは自分ではなく自分の幻想ではないかという疑問ももっていた。それが正しいのかも知れない。映画では後悔が感じられたが、別れてから復縁のチャンスはいくらでもあり、そうしなかったのだからそれでいいのだろう。結局はどちらにとってもいい結末なのかも。そうだとしてもあのすばらしい学校時代の輝きが消えることはない。それはそれですばらしいい体験だった。それは結婚という結末にはならなくてもその過程はいつまでも残る人生の宝物だ。それが映画になり、結婚という結末にならないのに大ヒットしたのが何よりの証拠。

まとめると、自由奔放な熱血男と、冷静で保護者的な堅い美少女との間に成立した奇跡の物語と常識的結末というところかな。

ところで小説と映画では大分違う。彼女が後ろの席になりペン先でつつかれるのは中学時代。その後彼は彼女以外の女の子に夢中になる。彼女はもちろん付き合っているわけでもないのもあるが、母親目線でみている。学校時代のエピソードは映画よりはるかにたくさんあって面白い。熱血だがそれを隠す彼と冷静だが意外に積極的な彼女の対比が面白い。映画で彼女の脇役の子は多分原作ではスパイの女の子。海岸で遊ぶシーンなどなく、代わりに仏教の子供キャンプの引率がある。映画のデートシーンはスパイの女の子の学園祭。行灯を飛ばすシーンとか、花婿にキスするシーンなど映画で非常に強烈なシーンは原作にはない。でも原作も監督も同じ人だからどちらでもいいということだろう。映画では再現されてないが原作では彼は彼女より3センチ背が低く、それが結構心の負担になっている。日本版など大男だから配役完全に間違ってるだろ。二人がわかれるきっかけの喧嘩大会に映画では彼女は見に行くが原作では電話の事後報告だ。そう言えば学校のお金が盗まれて疑われるシーンも原作にはなかった。映画では彼女を見直す重要なシーンだが原作では見直すなんて必要無い感じ。

映画の日本版は自分が配役を決めるならカローラのCMの二人かな(菅田将暉中条あやみ。乃木坂を使うなら白石麻衣の方がはるかに大人っぽくてしっくりくる。まあ、みんな忙しすぎて無理かも知れないが。それにしてもよくもここまでオリジナルと同じ構図・カット割りをやったものだ。しかもデートシーンのロケ地は台湾でもとの映画と同じ。監督は監督を務めたのが21年ぶりとのことなのでオリジナルをそのまま写すといい映画ができそうと思ったのだろう。おかげで台湾版の言葉がわからなくても楽しめる。映画を見るなら台湾のオリジナルが絶対いい。

 

 

「あの頃、君を追いかけた」(映画)

飛行機の中で見たのだが、学校のあこがれの女生徒と男子バカ5人組がいて一人がうまくいきかけるのだが、結局その女の子は関係ない人と結婚してしまうという話で、いったいなにが面白いのかわからなかった。いったい、こんな映画誰が見るのかと思って帰ってネットで調べたら、乃木坂の子がヒロインなので乃木坂ファンのための映画のようだ。なるほどと思ったが、これは台湾の大ヒット映画のリメイク版とのこと。台湾の元映画がyoutubeで全編でていたので見てみた。日本語字幕がなく、中国語字幕はあるが意味は分からない。しかし、日本の映画は台湾の元映画をカット割りなども含め非常に忠実にリメイクしていてあらすじはだいたいわかる。最後までみたら面白かった。


那些年 我们一起追的女孩

この映画のテーマは女性は大人になり、男はなかなか大人にならないということだ。だからヒロインが大人っぽく、ヒーローは子供っぽく見せるのがポイント。日本の映画はヒーローが大人っぽくヒロインが子供っぽいのでうまくいかない。台湾の映画はやはり女優が魅力的。女優の魅力は美人かどうかではないことがよくわかる。最初は美人でもないし、にくったらしいとも不細工とも見えるのだが、二人がうまくいくようになった頃はびっくりするほどかわいく美しく魅力的。画面の作り方もうまい。そして自分の意思と分別を持ったしっかりした女性に描かれている。一方、男はかっこいいところをちらりと見せてそれなりに魅力はあるのだが、いかにもバカで分別がない感じに描かれていて、男と女の対比がうまくいっている。

そしてこの映画のもう一つのテーマは激しい後悔の念だ。男は実は監督でもある原作者自身。もしあのとき自分がもう少し大人であったなら、相思相愛でうまくいっていたはずの二人には幸せな未来が待っていたはずなのに、という強烈な後悔の念が台湾の映画からは伝わってくる。もしあのとき男がちょっと大人になっていた並行宇宙では二人は幸せに暮らしているに違いない。しかし現宇宙ではそれは無い。それが青春。ということで青春映画として成功している。日本の映画ではそれがまったく伝わってこなかった。たぶん男が大人すぎるのだ。

とは言え、この二人が仮に結婚したとしてもうまくいかなかったのではとも思う。女性は男のバカさ加減に始終腹を立てていなくてはいけなくなるだろう。それはそれで幸せなのかも知れないが。それより、もっと普通の相手と結婚して普通の生活をする方が普通に幸せになれそうだ。結局二つの人生を生きることはできないからどっちが幸せかなんて比較することはできない・・・なんてことを想像してしまうくらい台湾の映画は面白い。

カット割りも絵作りもほぼ同じように作られていてもこれだけ違うんだから映画というのは微妙なものだ。伝えたい世界が伝わるかどうかはちょっとした表情一つで左右される。

 

蓄電池とアイミーブとエニカ

蓄電池が100万円もするようなら電気自動車の中古を買った方が安い。電気自動車なら単なる蓄電池だけでなく移動手段として使えるし。主たる移動手段としてリーフを買うとしても移動手段として使う間は充電できない。だから家用の蓄電池としてもう一台中古のEVを用意するのも悪くない。

アイミーブMというのが東芝製の蓄電池を搭載していて中古と言えどもほとんど電池が劣化してなくていいらしい。中古市場では80万円程度であるようだ。電池として買うのだから車の他の性能はどうでもよく、電池が良くて安いほど良い。

しかしリーフを買った場合残る電気代は6~8万だから最大削減してもその程度しかお得にならない。10年で最大80万円程度。つまりとんとん。しかし、車として使う以上は税金、保険、車検代がかかる。年に10万程度か。10年で100万もよけいな赤字になってしまう。

ということは中古のアイミーブMを買ってすぐ廃車にしてもいいかも知れない。もう一つ手がある。エニカという個人間のカーシェアリングのシステムが話題になっている。アイミーブを家用の蓄電池として買うなら基本移動には使わないのでいつでも貸せる。エニカに登録して1回3000円くらいで貸し出して10日に1回でも収入があれば年に10万円稼ぐ。車の維持費は車自身に稼いでもらうのも手かも。

 

スマートテック

卒FITの電気の買い取り価格の発表が相次ぐ中、茨城のスマートテックという会社が10円で買い取ると発表していたので注目していた。そんななか、家の太陽光の点検に来てくれた会社が何とそのスマートテック。家の太陽光を設置した会社は火事で燃えてしまったのでパナソニックから別の点検会社を紹介されて申し込んでいたのだが、会社の名前は忘れていたのだ。

その点検の結果と延長保証の案内、蓄電池の紹介、10円買取の紹介を兼ねて訪問するというので楽しみにしていた。可能なんだったら10円買取も早速申し込もうと思っていたのだが・・・

昨日、その訪問があったのだが、ほとんどすべて蓄電池の話。予想はしていたが100万~400万もするらしい。で、10円買取も蓄電池設置者に限られるようだ。家の場合、前に計算したように蓄電池を入れても電気代をゼロにすることは難しい。年間の電気代も10万円程度。だから100万以上もしたら10年では元がとれない。蓄電池は検討しませんと説明し、お引き取り願った。やっぱり高い買取には何かしら条件がある。そりゃ、そうだろう。慈善事業ではない。営業力があるから激動の時代にも生き残れる。でもうちにはいらない。

うちは卒FITしたあとのプリウスの車検時にリーフe+の中古とV2Hを導入して車も含めたオール電化することにしようと思う。さらに電化上手がなくなるか、東電が柏崎を動かすタイミングで自然電力の100%自然エネルギーを目指しているSE100というメニューにしようかと思っている。ダイレクトパワーと同様市場価格連動だが、ダイレクトパワーが対価4円のところ、5.3円でちょっと高い。しかし、リーフで購入電力量は十分少なくなっているはずなのでちょっと高くてもたいしたことはない。その負担で我が家のエネルギーは完全にCO2フリーとなる。そんな状態が2022年には現実になる。自由化の恩恵は意外に早くやってくる。

 

スマートテックのHPをよく見たが、10円買取の条件に蓄電池は入っていない。営業マンは10円買取5年と言っていたので5年は蓄電池が条件なのだろう。2年だったらそういう条件は無さそうだ。ただし、「他者とVPP契約しない」という条件がついている。蓄電池を含むVPP営業の囲い込みが目的なのだろう。今後スマートテックはVPP事業を本格化させるという意思表示。今回蓄電池は断ったが、VPPなら乗れる話もあるかも。2年間の10円買取は申し込んでもいいかも。